栃木で古くから歩かれたいた道を古地図などを手がかりにしながら歩いてみた記録です。

 

古道名 概要
会津中街道
会津西街道が会津から江戸への主たるルートであったが街道1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ、天然ダムの「五十里湖」が形成された。それまでの会津西街道が水没で通行不能となったため、会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に整備されたのがこの中街道である。氏家宿から矢板宿、板室宿を経て那須山中の三斗小屋宿、標高1,468mの大峠、松川宿(現下郷町大松川)などを経て会津に至る。しかし、会津西街道が再整備され次第に使われなくなっていった。 その後この街道は戊辰戦争の悲劇の舞台となって登場する。
会津西街道
会津西街道は、江戸時代に会津藩主・保科正之によって整備された、会津の若松城下から山王峠を越えて下野の今市に至る街道。会津からは下野街道(しもつけかいどう)とも、日光街道とも、江戸街道とも、南山通りとも呼ばれた。 天和三年(1683)の地震により不通となり代替の道として会津中街道が開削されたが、およそ三十年ほどで復旧。幕末には戊辰戦争の舞台ともなった。
日光例幣使街道
例幣使街道は、京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道。  元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。
その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。 例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。