2026.06.04_失われた峠道を探す_栃木の峠#45_大萱峠_百村街道_栃木・福島県境を繋いだ峠道_資料検討

「大萱峠」、この峠名を知ったのは県境ルートを歩く登山者の記録からです。 ただ、そこには「大萱峠」というプレートがある様子が記されているだけでこの峠に至る道についての情報はありません。 一体どことどこを繋いだ道なのか、その具体的なルートは、いつ頃使われていたのか ・・・情報はなく謎だらけ。

まずは、その由来について調べてみました。 と言いつつ、ネット検索してもなかなかヒットせず。 たぶん、福島県の歴史書にあるのではないか? それもこの道が通っていた所、と想像を巡らし福島県田島町の図書館に車を走らせ町史をチェック。 そしてやっと該当箇所とおぼしきページに辿り着きました。

『田島町史 第6巻 通史(下)』 近世史料Ⅱより抜粋

明治二年午の十一月一日守山藩の武士四人頭長関才次郎家来が吉田調山岸沼清助正木友三郎仲間一人、間道口固めとして来り、翌年四月迄名主久右衛門宅に居た、四月交代に尾津孫八頭長として来り家来馬場多忠太山本一二熊田猪松同勢三人来り、関才次郎のみ残り居たる、その当時才次郎は栗生沢より百村に通ずる道路開さくにつき清算役所より役人に任ぜられた、田島役所より大内藤平出張し四月初旬刈払いに着手し、栗生沢百村は百村地内にて切開き、賃金は男子一人玄米二升ずつにて当村は一戸一人位平均に出た、さして八月末開通した、  も当方にて作りたる百村地内柳空沢迄栗生沢人夫で作る、それより先は百村人夫作る、八月下旬若松県令四條殿同勢五十人程東京より若松へ通行さる、百村泊りの田島泊りと通過す、本かご一丁、長持一トとし乗馬一頭百村より人夫五六拾人あり、それにて荷物持ち出し栗生沢よりも人夫を峠迄出す、外田島外七ヶ村大萱峠まで名主壱人人夫引連れ出迎いたり、明治四年百村地内桑沢へ栗生沢区民十一戸丈新駅として出る、栗生沢より二里半出張したりし湯田駒吉相原伝蔵大竹兼吉、それより一里半行きて舟石へ三斗小屋より新駅とし星三右衛門出張せり、それより二里程にして牛蒡平へ百村より四戸新駅として穴沢野左衛門外三名であった、里程は栗生沢より百村まで六里半と五拾間、かくして栗生沢百村間は全く道路が出来上り、明治六年頃は一年に二千五六百駄(馬)位通行せり、然し完全—-と云はれなかった、途中駅が少い為、且百村地方で修繕が届かずして九年頃は全くやぶとなりくずれるあり木のたおれるあり此所に於て全く道路は立消になった」
〔昭和三十二年五月十三日 田茂山栄 写本栗生沢 湯田一意蔵〕

解説:

明治2年(1869)
11月1日、守山藩の武士が間道(抜け道)の警備のため来村。 頭長(責任者)は関才次郎。 同行者は吉田調、山岸沼清助、正木友三郎ほか1名。 名主・久右衛門宅に滞在。
翌年4月まで駐在した。 【 守山藩 – Wikipedia 】

明治3年(1870)
4月に交代。新たな頭長として尾津孫八が赴任。 家来として馬場多忠太、山本一二、熊田猪松ら3名が来村。 関才次郎のみ引き続き残留。 栗生沢~百村道路の開削。 関才次郎は栗生沢から百村へ通じる道路開削のため、清算役所の役人に任命された。 田島役所から大内藤平が派遣された。

4月初旬に刈払い(伐開工事)を開始。
栗生沢側・百村側の双方から道路を切り開いた。 賃金は男子1人につき玄米2升。 百村では各戸ほぼ1人ずつ人夫として参加した。 工事は8月末に開通した。
工事の分担 柳空沢までの区間は栗生沢側の人夫が担当。 それより先は百村側の人夫が担当した。
若松県令の通行(明治3年)
8月下旬、若松県令・四條殿が東京から若松へ向かう途中この道を通行。 一行は約50人。 百村および田島に宿泊しながら通過した。 本駕籠1丁、長持1棹、乗馬1頭を伴った。
百村から50~60人ほどの人夫が荷物運搬に従事。 栗生沢側も峠まで人夫を出した。 田島ほか7か村では、各村の名主が人夫を率いて大萱峠まで出迎えた。
明治4年(1871) 新駅(中継宿)の設置
桑沢駅 百村地内の桑沢に新駅設置。 栗生沢区民11戸が移住。 栗生沢から約2里半。 湯田駒吉、相原伝蔵、大竹兼吉らが駐在。

舟石駅 桑沢から約1里半先。三斗小屋側から星三右衛門が出張して新駅を担当。

牛蒡平駅 舟石から約2里先。百村から4戸が移住。穴沢野左衛門ほか3名が担当。

道路完成後
栗生沢~百村間の距離は6里半50間。 (28km程) 道路は一応完成した。
明治6年頃(1873頃)
年間2,500~2,600駄(馬)ほどが通行。 一定の交通量があった。 衰退。 しかし道路は完全なものとは言えなかった。 途中の宿駅が少なかった。
百村側で十分な修繕が行われなかった。
明治9年(1876年)頃には荒廃が進行。
道が崩れる。 木が倒れる。 藪化する。 その結果、この道路は事実上廃道となった。

全体の流れ
守山藩兵が駐在(明治2年)
栗生沢~百村間の道路開削(明治3年)
若松県令一行が利用(明治3年)
宿駅(桑沢・舟石・牛蒡平)設置(明治4年)
年間約2,500駄が通行する交通路となる(明治6年頃)
維持管理不足により明治9年頃には廃道化

⇒ この道が利用された期間は、1870年から1876年ぐらいのわずか7年ほどの期間だったらしい。

おおおその経緯は分かりました。 ただ、廃道となってから既に150年が過ぎておりとんでもない藪道になっているでしょう。

一回目の記録はこちらです。 まだまだ序盤。

2025.11.17_栃木の峠_#44大川峠 & #45大萱峠(黒磯田島線)第1回 | 空と星と山と

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