檜枝岐村から県外へ出る峠がいくつかあった。 例えば、群馬県沼田へは尾瀬・戸倉を超えて18里、新潟県小出へは大津岐・銀山平をを経て16里とか。 そして今回の古道歩きのテーマとするのが引馬峠・栗山川俣そして富士見峠を越えて日光に至る古道 距離にしておよそ15里 60km余りとなる。
引馬峠は檜枝岐村から栗山村川俣を結ぶ交易であった。 また、檜枝岐村では狩猟、木工製品製造の他に屋根葺きの職人がいて春秋の農閑期グループで群馬、栃木方面に出稼ぎにいっていた由。 この職人達が日光へと向かう場合に使ったのもこの引馬峠の道だったようだ。
地図にするとこんなルートになると思われる。
(注: 川俣・栗山から先は、他にもルートがあるようだ。 例えば、山王峠を越えて日光湯元温泉に至る道、女峰山の東側 大笹峠を越えて日光に至る道。 時代とともにルートが変わったいったのだろう。)
以下は引馬峠関係の事項が記述された本。(概要後述)
1) 尾瀬と檜枝岐 川崎隆章(昭和18年)
- P192-210 黒岩山を探る 沼井鐵太郎
- P401-449 福島県南会津郡檜枝岐村探訪記 早川孝太郎
- P506 鬼怒沼林道と鬼怒沼湿原 川崎隆章
2) 山岳第19年第一号 尾瀬 武田久吉 大正13年7月 尾瀬再訪記
3) 山と渓谷 尾瀬と日光 133号 昭和25年6月号
4) 山と渓谷 特集秋の尾瀬と日光 昭和35年9月号
5) 山と渓谷社編集 ハイカー 尾瀬と会津の秘境 昭和37年6月号
6) 鬼怒沼山地 橋本太郎 現代旅行研究所 昭和59年5月号
7) 山人の賦III 平野福朔・平野勘三郎 檜枝岐/山に生きる 昭和63年白日社
8) 画文集 山の声 辻まこと 東京新聞出版局 昭和46年
9) 森と湖とケモノたち 伊藤乙次郎 白日社 昭和61年 (中禅寺湖の ”日光の仙人”に聞く)
まずは、この檜枝岐から日光までのルートを7つのパートに分けてみた。
第1パート : 檜枝岐村中心部から舟岐川林道を通り黒沢林道の入口まで。
古地図(昭和初期)
第2パート: 黒沢林道入口から引馬峠まで
こちらは一部を実際に歩いてみた。 ↓
(1) 2022.08.21 引馬峠を越えて 檜枝岐村から日光へ 第1回 | 空と星と山と (acchidayo.com)
古地図(昭和初期)
第3パート: 引馬峠から川俣まで (※平五郎山 ・・ へいごうろうやま)
古地図(昭和初期)
第4パート: 川俣から栗山東照宮まで
古地図(昭和初期)
第5パート: 栗山東照宮から富士見峠まで
古地図(昭和初期)
第6パート: 富士見峠から寂光の滝まで
古地図(昭和初期)
第7パート: 寂光の滝から東武日光駅まで
古地図(昭和初期)
参考文献:
◆1)尾瀬と檜枝岐 川崎隆章 昭和18年発行
※1 P192-P210 「黒岩山を探る(沼井鐵太郎)」
沼井氏は大正九年10月28日に夜行電車で上野を発ち29日に日光から馬返しまで電車。そこから山王峠を川俣温泉に到着。翌30日川俣温泉から引馬峠を越えて同日夜に檜枝岐に到着されている。
三十日。一夜の安眠は慣れぬ疲勞をも悉く癒して呉れた。其れでも出發は矢張り遲れて午前九時になる。草鞋の紐を結ぶと宿から盤梯餅を馳走されて、其の日の午後から一泊の豫定で鬼怒沼探勝に出掛けられる筈の大町桂月先生とお別れする。温泉の東隣なる三軒家には新しい官舍が一つ建てられた。其れから澤を一つ渡つて峽谷の道と別れかゝると、下には温泉宿と冷い流があり、西の空には鬼怒沼の平附近が望まれる。も少し上つて茅戸の平に出ると後へに女貌、帝釋、大眞名子、太郎の山々がずらりと列ぶ。殊に女貌の美しさは表から見た比ではない。椈、楢の闊葉はとくに落ちて、血潮の樣に赤い殘の楓のみがちらほら眼に付く。夏ならば暑い登りだが秋の旅には別れの水も呑まうとはせず、笹の間から、左にナギの見える山添ひの道を登つて、平五郎山を過ぎると早や身は針葉樹林に沒し、高低も餘り目立たなくなる。正午近く鳥屋場の小屋着。此れは平五郎山から十町許り進んだ所の鞍部で、雪が積んだら錆澤を來る方が早いといふ。小屋の持主の老婆、手傳ひに來た中年の女と其の娘が火を燃しては私達に馳走するとて小鳥を燒いて呉れる。見晴らしは女貌から男體迄の主なる部分と、温泉が岳の附近が見える。女貌の布引瀑も白く光つて見える。最近此の附近には雨が降つたさうで、今晩も雪らしいと女達は告げた。
午後一時十分出發して一つ坂を上ると、向ふから丁髷の爺さんが來る。之もホーロク平(一八九二米の一帶を云ふ)の先の鳥屋場を持つてゐる者で隣の鳥屋場へ遊びに行く所だといふ。私達が女達は川俣へ歸る所だといふと、踵をめぐらして三人の先に立つ。そしていゝといふのに名越君の荷を持つてすたすたと進んだ。ホーロク平の下りから北方を望むと臺倉高山(檜枝岐ではダイグラとのみ云ふ)の黒い頂が二つ見えた。老人の小屋は無砂谷の水源の澤から黒澤へ乘越す樣な處にある。此處なら前の小屋程水に不自由する事は無いらしい。小屋から向ふの鳥屋場へ出て見ると、其處の高みから引馬峠第一の眺望が得られる。日光諸山を屏風の如くめぐらし、其れから燕巣、物見山、鬼怒沼山を經て黒岩山に續く山脈もあらかた黒裝束の一組である。黒岩の頂は惜しくも雲に隱されたが、其の尨大な山容と、見下ろす黒澤の谷はひし/\と身に迫る樣な深い趣があつた。私は三度目にこの峠にやつて來たが、夏はいつでも雨に崇られて此處の眺望を見逃した。山を見てゐると無砂谷からばら/\ッと飛んで來たの一群は苦もなく鳥網に引懸つてしまふ。老人はそれを一々首をねぢつて歩くのだが、少し可哀さうであつた。
凡そ一時間も遊んでゐると冷い霧雨が颯と降つて來る。そこで出發したのが二時四十分。雨は直きに上がる。最早大した上りはなく、道の跡もよく分つて、十五分の後には引馬峠の頂上に着く。此れ迄全く長い上りだ。そして來て見ると箆棒に廣い頂上だ。其處に最近出來たものと見えて、左へ行く道があつて、「左は宮川歩道、右は檜枝岐道」と立木を削つて記してある。然し其の外に之と反對の意外に取れるまぎらはしいものもあつて一寸困るが、要するに右すれば峠道、左すれば宮川歩道(實川歩道の誤?)で、後者は孫兵衞山を通過して實川上流の硫黄澤赤倉澤落合の附近迄下りてゐる事を後に知つた。峠道を少し行つた處に新しい小屋掛けの跡もある。以前あつた高山植物採集禁制札も影を失つた。既に三時過で到底日のある内に村迄下れない。けれども一二〇七米と記された馬坂澤の合流點迄は行かれる事と信じて下つて行くと、四時十五分に漸く谷の最奧の橋を渡る。其れから數町進んで又川を渡る。畑小屋へ出る迄其の邊ともう二三箇所迷ひさうな所があつた。一番困つたのは燒澤の落合に近い所で、右手の本流には名のありさうな瀑が懸つてゐる。其の縁の岩の上を渡つて行くのだが、暗くなつてしまつたので道が上にありさうな氣がしたりして大分手間取つた。殘飯を平らげて提灯を頼りに進んで行くと、今宵も星はぴか/\輝き、軈て畑小屋を通過してしまふと、前面に駒が岳の明月に照らさるゝを仰いで、もう檜枝岐に程近いと友に知らせる。檜枝岐の丸屋旅舍に入つたのは午後八時四十分であつた。
※馬坂澤というのは今のトヤス沢だと思う。 ※畑小屋は今の広窪辺りかと思われる。
※2 P401-P449 「福島県南会津郡檜枝岐村探訪記 早川孝太郎」
P427 屋根葺き職 狩猟、木具製造の他に別に屋根葺きの職人があって、是亦団体を成して、春秋の農閑期を、見て群馬、栃木方面に出稼ぎをする。 ・・・・ 屋根葺きの出稼ぎを一に関東稼ぎといひ、群馬、栃木地方に出たのであるが、近年漸次衰退して人員も明治初年頃の五分の一に減じ、現在は僅か四五人に依って組を作っている程度である。
※3 P506 鬼怒沼林道と鬼怒沼湿原(川崎隆章)
故平野長蔵翁積年の努力に由り大正十三年六月山口営林署の手で開通を見た鬼怒沼林道は、尾瀬沼より奥鬼怒郷経由日光湯元温泉、又は栗山郷を結ぶ幹線としてその価値極めて甚大であると共に・・・・鬼怒沼林道黒岩山からは古くからの檜枝岐村-栗山郷の交易路であった引場峠に黒岩林道を通し得た結果とさへなったのである。
◆2)山岳 第19年第一号 尾瀬 大正13年7月 尾瀬再訪記 武田久吉
[第十一日 尾瀬に来てからもう一週余の日は経過した。 ・・・・ 今日はもう惜しくも袂を別たねばならない。 ・・・ 三人は鬼怒沼に向つた。 山人は林のはづれ迄送って来て呉れる。 さらば尾瀬よ。 さらば山人よ。 ・・・ 黒岩山の南肩に周ってみると、此処から引馬峠に通ずる歩道のあることが記してある。 されば此の辺の国境通過は今では大層楽になった訳で終日林の中を歩きたい人にとっては、たやすくその希望が実現出来るのは幸せである。」
◆3)山と渓谷 尾瀬と日光 133号 昭和25年6月発行
P115 奥日光山岳概念図
上記地図の引馬峠の箇所をアップしたもの。
◆4)山と渓谷社 特集 秋の尾瀬・日光 (昭和35年9月号)P48-50 尾瀬沼より奥鬼怒温泉郷へ -奥鬼怒林道- 仙境鬼怒沼を抱いて尾瀬と奥鬼怒温泉郷を結ぶ静かな道(吉田貫一郎)
「・・・・ 最高峰黒岩山の展望はあまり望めないが山頂に近い肩から黒岩林道といわれる引馬峠への道を望むとき往時をしのぶ懐古趣味の人ならば感無量のものが湧いてくる。 今は里人もあまり通らずに、熊笹におおわれているが、古誌に残る間道の面影はしのばれる。 ・・・」
◆5)山と渓谷社編集 ハイカー ’62尾瀬と会津の秘境 (昭和37年6月号)P88-90 田代山・帝釈山縦走(房内幸成)
「・・・ 田代山から引馬までの帝釈山系を縦走して引馬峠から檜枝岐に下るコースはその秘境の深奥を行くものだ。 ・・・尾瀬までの縦走を断念して引馬峠から檜枝岐へ方向転換した。 この古い峠のくだりは美しい黒沢、舟岐川に沿う道だ。しかし長かった。 檜枝岐に着いたのは夜の九時。 田代山の弘法堂を出てから十七時間もかかり、苦しかったが楽しい山歩きだった。 ・・・(注) 引馬峠とか馬坂峠とかの名が残っているように、このあたりはむかしは馬による物資運搬や交換が行われていたことは明らかである。 唯一の交易路である峠、そこは峠の向こう側のくにへの通路である。 いまはヤブがふかく、むかし通った人でないと分からないがいまも草のしげる下に隠されのこっている。 馬立、馬返し、いう地名も馬による交通があったからだ。 明治の頃まで、檜枝岐の宿には馬やどもあって旅人の馬をとめた。
※ 実川の場所が違っているように思える。 実川は黒岩山・赤安山に源を発し、七入に達し檜枝岐川となる。 馬坂沢は現在のトヤス沢だと思う。
◆6)奥鬼怒山地 橋本太郎 現代旅行研究所 (昭和59年5月発行)
P150-161 引馬峠を越えて平五郎山へ (昭和57年5月4日~5月5日 山行)
5月4日 :
あたご屋(宿泊)~檜枝岐・前川橋(40分) ~ 広窪 (45分) ~ 舟岐橋(70分)~ 越ノ沢橋(70分)~舟岐林道終点(60分) ~火打石沢源流二股(20分)~ 引馬峠(60分) ~ 1896標高点(160分)~平五郎山(40分) ※18時到着(ツェルト泊)
5月5日 :
平五郎山~無砂谷林道右岸線・平五郎沢(35分)~伊勢沢橋(40分)~ 第二無砂谷橋(35分)~ 無砂谷橋(110分)~ 川俣大橋
注: 平五郎山から平五郎沢と伊勢沢のほぼ中間にあたり、林道がV字状にくねる少し手前だった。 この林道は無砂谷林道右岸線と呼ばれていた。 下図は、平五郎山からの下山ルート(推定)です。
※ 檜枝岐の会話から「火打石沢を登った方がいまは早えだろう。 雪に沢が埋まっているはずだから。 沢を詰めれば10分もあれば峠に出てしまうはずだ。」 「いまでは平五郎山へ行って川俣温泉へ下る人はあるめえ。俺なんか去年、峠から沢におりて黒沢の林道を下った。 いまは皆そうすんじゃないかな。 その方が楽だ。 そうすれば今日中に林道へ下れる。」
引馬峠(ひきばとうげ): 1896メートル。 ツガなどの針葉樹の森に峠は昼なお暗い。 田代山、帝釈山、黒岩山とつづく道が通っており、会津檜枝岐村側の舟岐川支流越ノ沢ぞいの道も通じる。 引馬峠は古く交易路の基点として重要であった。 峠から平五郎山に少し下ったホーロク平には明治時代、無人交易をしていた掘立小屋が建っていた。 福島県南会津郡檜枝岐村から栃木県塩谷郡栗山村川俣と交易路が結び、さらに富士見峠を越えて日光へと通じていた。 大正時代の末期には曲者(メンパ)を運んだり、屋根葺き職人など往来していた。 補鳥のための鳥小屋の小屋も昭和初期までホーロク平の下にあった。 以前からの道は現在廃道であるが、昭和30年代まで残されており、舟岐川の最上流火打石沢に沿ってあり、峠からは平五郎山へとつづいていた。
ホーロク平の位置について :「黒岩山を探る(沼井鐵太郎)」の話しと合わせて考えるとこの場所になるのではないかと推測される。
平五郎山(へいごろうやま): 1700メートル。 引馬峠付近から派生する尾根の端にあり、平坦な山頂はダケカンバが多く目だつ森となっている。
黒岩山 : 2162メートル。 福島県南会津郡檜枝岐村と栃木県塩谷郡栗山村、また群馬県利根郡片品村の三県境に聳える山。 全山森林におおわれており、引馬峠からくる黒岩林道、鬼怒沼山と尾瀬から通じる鬼怒沼林道が南側山腹の黒岩清水で合流する。 頂上には顕著な黒い岩があり、山名に通じるものと思われる。
◆7)山人の賦(やまうどのふ)III 平野福朔・平野勘三郎 檜枝岐・山に生きる 昭和63年発行 白日社
⇒ ※ 本の内容について現在熟読中。
◆8) 山の声 辻まこと 画文集 東京新聞出版局 昭和46年発行
10月15日 :
浅草(09:25)~鬼怒川駅(11:50) ~鬼怒川駅 バス(12:50)~ 中三依バス停 (14:10) 10分休憩 中山峠への分かれ道’15:10) 中山峠分かれ道(16:25)~ 湯の花温泉(17:30) 湯宿井筒屋宿泊(木賊)
10月16日 :
湯の花温泉(07:10) ~ 田代山(12:50) ~ 帝釈山山頂(15:10)~ 山中ビバーク
10月17日
山中ビバーク地点(05:30)~台倉高山山頂(09:20)~ 引馬峠(13:00)~檜枝岐着(17:00) 丸屋旅館宿泊
P177 引馬峠の路らしい路にやっと着いたのは、なんとちょうど13時だった。 私が戦争前に川俣からここへ登ってきた頃には、はっきり路があったのだが平五郎山へ出る路はクマザサと倒木であとかたもない。 白檜、ネズ、アオモリトドマツなど、峠をかざる巨木は依然として変わらない静けさだが、その足もとは荒れはてている。 風下になった会津側は、しかし、路も森も静かで、むかしのままであった。 ・・・ だが、栗山からしても、檜枝岐からにしても、この峠まで馬を引っ張ってくるのは無理なように私には思われる。 ヒクバという発音からすると、あるいは低場、という意味だったのではないだろうか ・・・
◆9) 森と湖とケモノたち 伊藤乙次郎 白日社 昭和61年 (中禅寺湖の ”日光の仙人”に聞く)
P38-39 その自分 あすこのひとたちはひどい生活をしていた
・・・ そん時は、帰りに檜枝岐から引馬峠を通って、そして川俣へ出て泊まって帰って来たが、方々に作業場があってね、あのシャモジ作りの小さな掘立小屋がね、その中でみんなやってたんだ。 それで、小屋の前がね、木っ端、それが山のようになってた、たいしたもんだと思ったね。
資料があればまた追加して行きます。