2023年4月1日に佐野の千体庚申山から尾根に沿って近沢峠まで歩きました。 こちら ↓
2023.04.1 佐野の千体庚申山~石尊~鍋沢山~近沢峠へとトコトコ歩いて来ました。 | 空と星と山と (acchidayo.com)
この途中で倒れていたお地蔵様を発見。
元通りにしました。
さて、このお地蔵様の場所の特定にトライ!!
明治時代の地図と現在の地図を比較。 この破線がおそらく昔、峠道があっただろうルート。 これは両方の地図に書かれている。
そこで実際にお地蔵様がいらした場所を現在の場所で確認すると矢印の示す谷になる。 つまり尾根1つ南の谷ということになる。 で、推測だが、戦後に地図を改訂したときに写し違えたのではなかろうか。 たぶん、当時殆ど廃道となっている古道の実地調査までは行われなかっただろう・・・
では当時の古道はどんなルートだったろうかと想像しながら引いたのが赤線のルートです。
実際に現場がどうなっていたかというと・・・お地蔵様の場所から東側に道らしきものが谷に沿って延びており同じように西側にもそれらしきものがありました。
次回は、この赤線の推定ルートを探して歩こう!!
さて、お地蔵様の修復の様子です。 下の写真のように本体は左(西側)に蓮の台座は右手に随分離れてありました。 実際お地蔵様を持ってみたところとても重くて倒れてここまで飛んだ! とは想像しにくいです。 不思議ですね~
台座のあった場所を掘ってみたら木の根が張りだしていてその為台座が傾いたのではないかという気がします。 取り敢えず掘り下げて近くにあった石を三枚平行になるように敷きました。
右が台座となっていた石、 そして左が蓮の台座です。
この右の丸い台座、最初は分からなかったのですが周りの土を除くと文字が刻まれていました。 こちらは奉納された村の名前でしょうか。 彦馬、中木戸、田村、川入村。
閑場村、 願主、 栗原
願主 栗原与○門
こちらはこのお地蔵様を寄進するにあたっての奉納料とそれぞれの名前が記されているような気がします。
一番上の 「同」は金額が一緒だった。 その下は名前で勘六、つたとか。 当時は名字はなかったですからね。 もしかしたら子孫の方々がこの近辺にお住まいなのかも知れませんね~
こちらも。
お背中には宝暦八年とありました。 1758年 田沼意次とか平賀源内の時代みたいです。
次回は赤線の推定ルートを歩いてみようかと思います。
2023.04.09 再訪の記録です。 ↓
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